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多家神社と宝蔵(たけじんじゃとほうぞう)

更新日:2023年5月18日更新 印刷ページ表示

多家神社 今から1000年以上前の延喜式神名帳によると、安芸国式内社は速谷神、伊都伎島神と多家神の三神しか記載されていません。
 「延喜式」とは、平安中期の律令の施行細則のことで、後の律令政治の基本法となったもので、この延喜式に載っている神を祀る社を「式内社」といいます。
 多家神を祀る社「式内社」は安芸郡の地に造営されながら所在がわからなくなっていました。

 この「多家神」をめぐって古くから総社と松崎八幡の氏子同士の争いが絶えなかったことから、明治7年(1874年)広島城三の丸にあった稲荷社を浅野氏から譲り受け、総社と松崎八幡を合祀し多家神社として現在地に造営されました。その後、大正4年(1915年)火災により宝蔵を残して社殿を焼失し、大正11年(1922年)に再建されました。
 「たけい神」または「多祁理神」の名をとって多家神社を称したともいわれています。

 現在、神武天皇を主祭神として合併祈神54坐を祀り、別名多祁理宮または埃宮と称し、町民の間では「えの宮さん」の名で親しまれています。

 榎川沿いに府中大橋から神社まで続く松並木は、明治時代からの参道の名残りです。
 また、多家神社は、府中町「水と歴史のウォーキングロード」の出発点となっています。

多家神社宝蔵【宝蔵(広島県重要文化財)】

 江戸時代初期に造られたといわれる木造のひわだぶきの校倉造りで、通常は三角の木を組んで周囲の壁を形成しますが、この宝蔵は四角の木材(上下を削り六角形)を組んだ珍しいもので、「信貴山縁起絵巻」に描かれている以外に例を見ず、日本に現存する同型の校倉では唯一のものとされています。

 また、広島城内から移築された建物として、現存する数少ない建物です。

 昭和29年広島県重要文化財に指定されました。

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