京都石清水八幡宮の別宮として平安時代末から鎌倉時代初めにかけて創建されたといわれ、源頼朝の下文〔元暦2年(1185年)に「松崎別宮」としてその名を見ることができます。
五つの末寺を抱える神仏混淆の神社で、免田・社領を認められるなど、中世、近世を通じて栄えました。しかし、安芸郡の地に造営されながら長くその所在がわからなくなっていた「多家神」をめぐって総社氏子との争いが絶えず、明治7年(1874年)総社とともに廃社とされ、多家神社に合祀されました。
府中中学校へ上がる道の入口に跡地が残り、石段、玉垣などのほか、神武天皇が東征の折りに腰掛けたという「御腰掛岩」があります。
元禄12年(1699年 )「厳島道芸記」宮島町(昭和46年刊本)